雨音と願掛け



「…隊長」

いつも颯爽と艶やかな表情の副官が珍しく顔を崩す様子を前に、冬獅郎は小さく眉を寄せた。が、あえて普段通り素っ気ない声を出す。余計な心配を増やさない為の気遣いだということに彼女、乱菊が気付かない訳はなかったけれど、それすらも承知の上で。
「んな顔して見送るくらいならどっか行ってろ。気が削がれる」
「けど隊長、今回は本当、何かあってもおかしくないんだよ?」

そんなことは、知ってる。
今回受けた任務が普段のような雑魚相手じゃないことも、如何に護廷十三隊の隊長格とはいえ、下手をすれば怪我だけでは済まないかもしれないということも。

自分に来た指令なのに何処で嗅ぎ付けたんだか、と浅く息をつく冬獅郎は少し険しく睨み付けて自分より高い目線にその深い瞳の碧を合わせる。
「自分とこの隊長が信じられないか?」
「…違いますよ。信じられるとかられないとか、そういう問題じゃなくて―」
「日番谷くん!」
乱菊の台詞に割り込んで遠くから呼ばれたその声に冬獅郎はピクリと肩を震わせた。隊長である自分に軽い呼びかけをする、そんな人物は一人しかいない。
その何処か必死な声色に今は嫌な予感しかしない。
駆け寄る桃を眺める乱菊に緩く流す視線は疑惑の眼差し。
「…雛森に教えたな、お前」
眉間に皺を寄せて口を尖らせるその様子は非難の表れ。けれど隊長のそんな態度にも怯まず、乱菊はその切れ長の目を薄く細めてポツリと呟く。
「あたしが言うより効くと思って」
「あのなぁ…」
「信じられないんじゃなくて、ただ心配なだけよ、隊長」
風に煽られて緩く波打つ細い髪を押さえる乱菊が困ったように笑う。それが本音であることは探らずとも判り切っていて、冬獅郎は返せない返事の代わりに目を泳がせて首筋を軽く掻いた。

ポツリ、ポツリ。
長く続く渡り廊下、その向こうに映える緑が降り出した小雨に色を濃く染めていく。

「ひ、つがやく…」
駆け寄って整わない呼吸をそのままに名前を呼ぶ。その姿を仰ぐ冬獅郎の隣、乱菊が踵を返してゆっくりとその場から遠ざかる。
「乱菊」
「あたしはもう用無しですから」
サラリとそう告げて、桃に目線を合わせると口元に笑みを浮かべる。
「後は頼んだよ」
「え、あ、はっ、はい!」
何を頼んでんだ、と不審な顔をする冬獅郎は恐らく意味が判ってないだろう桃のやけに気合の入った返事に更に肩を落とす。

軒を叩く雨の音は小さく、けれど確実に中庭の新緑を雨色に変える。
二人以外、周囲に人の気配はない。

「…で、何だよ、雛森」
何か用か、とわざと問い掛ける。
その不安気な表情と声から理由は判り切っていたけれど。
えっと、とようやく落ち着いた呼吸に胸元の服を握り締める。
「日番谷くんが危険な任務に行くって聞いて、それであたし」
「危険じゃない任務なんてねぇよ」
「そ、それはそうだけどっ…でも、いつもよりずっと大変だって」
冷えた空気に小雨が触れて、次第に膜を張る霧が木々の緑をぼんやりと隠す。僅かな雨音に混じる桃の声は酷く優しくて、それが冬獅郎には余計に痛かった。

大きな藍色の瞳が向けられる先、想い人は他に居る。
こんな声色で心配されるような権利は、自分にある筈がない。
そんな風に思った後、あまりに自虐的だと胸中で自らを諌める。

「…だからって別に、雛森がんな顔することねぇだろ」
お前が行くわけじゃないんだし、と付け足した愛想のない言葉に桃から返ってきた台詞は思いがけず勢いがあって、
「あたしが行くわけじゃないからっ…!」
少し驚いて見返す冬獅郎の目から視線を逸らして俯くと、伏せた瞼の奥、何かに耐えるように揺らぐ瞳。
「あたしのことじゃないから…だから心配なんじゃない…」
チラリと目線を投げる桃の拗ねたような態度に冬獅郎は目を丸くする。
「日番谷くん、あたしの気持ち全然判ってない」
「…んな泣きそうな顔すんなよ」
「な、泣いたりしないもん!」
真っ赤な顔で怒鳴るその瞳は僅かに潤んでいて、ぼやける視界に映った冬獅郎の視線から逃れようと、桃は咄嗟に俯いて口を噤んだ。宣言した直後に泣き出してしまいそうな自分が悔しくて。
「泣いてないんだから、ねっ」
「…声、震えてるぜ?」
「!うう、うるさいっ、もう!日番谷くんのイジワル!」
もうどうしたって零れ落ちそうになる涙を片袖でごしごしと拭いながら、もう片方の手で冬獅郎の肩を乱暴に叩く。まるで痛くもない叩くその手を眺めて、ゆっくりとその姿を仰ぐ。


俺なんかを想って、心配して、怒って泣いて。
その心が真っ先に向かうのは決して自分のところじゃないけれど。

それでもこうして今目の前で零す涙のその一滴は、
間違いなく自分の為だけのもの。


「何があってもお前を泣かすような馬鹿な真似だけは、しねぇよ」
噛み締めるように口にする冬獅郎の声は、自分にか桃にか、何処か宣言するようで。僅かに目を瞠って凝視する桃の潤んだ瞳に視線を合わせると、冬獅郎は軽く肩を竦めて苦笑した。
「約束する。だから、心配すんな」
「日番谷くん…」

霧混じりの小雨は止むことなく今だ降り続き、二人の声に音を添える。

微妙な無言の後、そろそろ時間だと再び口を開こうとした冬獅郎より早く、桃の足が一歩半前に出て距離を縮めた。突然の行動に驚いたのも束の間、何も言わず冬獅郎の右手を取って、桃はその小さな両手でぎゅっと握り締めた。
「ひ、雛も…」
「動かないで!」
「は?」
訳が判らないながらも言われるがままに動きを止めた冬獅郎は、額にコツンと当たった感触と、かつてない程の至近距離に思わず言葉を失う。あたたかな両手に包まれた右手は次第に汗ばんで、少し目線を上げればすぐそこにはくるくると良く動く大きな瞳。自分の額を冬獅郎のそれにくっつけた桃の真意が掴めず、ただ逸る動悸に気付かれないように押さえ込むので精一杯。
「…雛森?」
それでもどうにか問いかけ混じりに呼び掛ける。
と、小さく視線を向けた先、桃は緩くその瞼を閉じていて、それはさしずめ何か祈るような素振り。
「日番谷くんが怪我しないようにってね、願掛けしてるの」
だからじっとしててね、と呟く声は子供を諭すような音程で。
ぎゅっと握り締める力強さときつく目を瞑って一生懸命なその様子に、冬獅郎は無意識に口元を緩めて喉の奥で笑った。
人気のない周囲にはパラパラと小雨が草の葉に落ちる音しか響かない。だからか、その笑い声は桃の耳元も掠めたらしく、僅かに頬を膨らませて赤い顔で剥れてみせた。
「あぁっ、何で笑うのよー!」
「だってお前、ガキじゃねぇんだから」
「むぅ、どうせあたしは子供ですっ!もーっ、ホラ、いいからじっとしてるの!」

指先から伝わる温もりと、額から移りゆくたとえようのない暖かさは彼女特有のもの。少し視線を巡らすと白く膜を張る霧が二人の肩を覆っていて、雨音が優しく耳を打つ。

「…約束だよ?」

ポツリ、小さく呟いた言葉に合わせて桃がゆっくりと瞼を上げる。
間近で見る瞳の奥、綺麗な藍色が遮る霧に薄く掠れる。

「絶対…絶っ対、無茶しないでね」
「…ああ」

握る手の力を込めて縋るような眼差しを向ける、それがあまりにも綺麗で。
いつもの桃らしいようで、そうじゃないような。
そんな瞳から冬獅郎は目を逸らせずにいた。





"日番谷くんが怪我しないように"
額を当てて手を握って、何をするのかと思ったら。
願掛け、ってか。
…ホント、やること為すこと何でも単純っつーか、ガキくさいっつーか。

けど、それでも。
触れていた右手と、額に残る柔らかな感触が、
知らずこの身に宿る力と成る。


(…単純なのは、俺か)
心の中で一人ごちる冬獅郎はそれでも口元を緩めて笑っていて。

今だ降り止まない雨の中、その温もりだけを頼りに地獄蝶を解き放つ。
現世への扉が開き、雨粒を振り払う白い羽織がひらり、翻る。




「…怪我なんか誰がするか」
あんな風にあんなに懸命に願まで掛けられちゃ、しようったって出来るわけがない。

だからお前は心配するな。泣いたりすんな。
いいから、ただ笑って、
其処で待ってろ。





コメント 何となく情景を思い浮かべられるような、柔らかい雰囲気の日雛を目指したつもり…だったんですが(撃沈)
手を握ったり額をコツンとしたり、何だか色々個人的な妄想にまみれた作品になりました。
何はともあれ、日雛好きな方々に少しでも楽しんで頂けたら幸いですv
update:2003/10/24
written:水樹
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