「……何だよ朝っぱらから」 寝癖だらけの頭がもそりと布団から現れた。 「こないだ友達と街に行こうと思ったんだけど、急にあたし招集がかかっちゃって」 「……」 「代休今日貰えたんだけど、友達とは合わなくて」 「…ほんで何で俺んとこ来んだよ」 「日番谷くん今日非番でしょ」 「………」 「一緒に遊びに行こ」 「…………俺と行って楽しいのかよ」 「一人で行くのつまらないもの」 「……………」 ごろ、と大きく寝返りとうってぐちゃぐちゃになった寝間着ごと日番谷くんの身体が布団から現れた。俯せになったまま唸る。機嫌の悪い猫みたいだ。 「ねー遊びに行こうよう!」 「………何分待てる」 「え?うーん。十五分」 「あともちっと寝られるな」 「えっじゃあ十分」 「……仕方ねぇなぁ」 もそ、と漸く顔が上がった。まだ目が開いてない。 「大橋あんだろ、街との境目。あそこで待ってろ」 「えっ行ってくれるの?!」 「丁度用事思い出したからな」 付き合ってやるから部屋を出ろ、着替える。 そう言われて障子から押し出される。くふくふ笑いながらあたしは歩き出した。
久しぶりに着た着物は樟脳の匂いがしたから、昨日香を焚きしめた。 だから今はほんのり甘い。
散 椿
外は晴天。 橋の向こうの街は賑わっている。活気溢れる声が聞こえてきそうだ。 対して日番谷くんが歩いてきた方角は静かなものだった。仕方ないけど。 「あーねみー」 着流しに草履の出で立ちがあたしの前を通り過ぎる。いかにも、だ。 「そんなに寝てないの」 「寝てるけどよ、お前より睡眠時間が必要なんだよこの身体」 不毛な成長期ってやつ、そう言いながら背がどんどん遠ざかるので、慌てて追いかけた。 「ちょっと待ってよ」 「機能性低いな女の格好って」 「しっ失礼ね!」 確かにいつもの服装と比べれば格段に動きにくいけれど。たまにはあたしだって明るい色も着たくなるのだ。 これでも足許は、かなり履き慣れた草履を選んでいる。少し鼻緒の色が着物の差し色よりもくすんでいたけれど、結局それを選んだ。歩きにくい草履はいくら可愛くても履くのを止めてしまう。豆でも作って普段に支障が出るのは困るから。淋しい理由だ。 「あのねぇ日番谷くん、そゆこと言うと女の子にもてないよ」 「そういう事言う奴がいいんだったら俺を誘うな」 青空の下歩いていく日番谷くんの背だって水色だ。 白い隊長羽織よりもずっと小さく見える。 「腹減った」 羽織を脱いでいるせいか、日番谷くんの口調も随分和らいでいる。言っている事はいつもと変わらないけれど。 「あっそうだ行こうと思ってたお茶屋さんがあったの!行こうよ」 「あーもー何でもいいよ、お前が行きたいとこへ連れてけ」 足を止めてこちらを振り返る。追いつくとまた前を見て歩き出した。 「連れてくお前が前を歩け」 どうやら待っててくれたらしい。
小さな笑みを零しながら橋を渡りきると、そこにはもう、隊長も副隊長も居なかった。
「………お前朝からぜんざいかよ…」 「美味しいって評判なんだって!」 「品書きに米がねぇ…」 「おもち入ってるよぜんざい」 「………………女は甘いもんで出来てるって本当だな」 日番谷くんは結局ところてんを選んだ。 あたしは随分とはしゃいでいた。そりゃそうだ。だって一体いつぶりだろう、こうやって買い物するの。 喩え隣にいるのが目利きの効かない少年でも。 反物を真剣に見ていると、暇そうにぷらぷら出ていく。帰ってきた時には笹の包みを持っていた。 「……何それ」 「鱒寿司」 「ちょ、ちょっとここで食べない!」 「腹減ったって言ったろ。…お、結構美味い」 店主は仕方ないなぁという顔で笑っている。こんな時だけ子供っぽい仕草をするからたちが悪い。 「ねぇねぇどっちがいいかな」 気を取り直して反物を身体に合わせてみる。桃色と黄色。 「どっちでもいいよ」 「どうしてそうなの」 「俺女じゃねーから判んねーよ」 肩を竦めて顎をしゃくる。そっちを見ると青系の反物が並んでいた。 「こっちよりは似合うんじゃね?」 「………」 「暖色系なら何でもいいと思うけど」 ぷ、と後ろで店主が吹き出した。 何も返せずにいると、日番谷くんは素知らぬ顔でもう一つ寿司を口に放り込んだ。
「そう言えば、用があるって」 「……ああ、ちょっと注文してた品があってさ。取りに来いって連絡あったから」 反物の入った袋を抱きなおし、振り返ると川を覗き込んでいた瞳と目が合った。 「どっち」 「どっちって」 「方角。取りに行くの早めに済ませた方がいいでしょ」 「……何もねーとこだからお前どっか入って待っててもいいぞ」 「何言ってるの付き合うよ」 「……橋渡って左」 「確かにあんまり行かない方角」 「寂れてっからな」 日番谷くんが歩き出すのを追って一歩踏み出した。 「わっ」 「?どうした」 「………鼻緒切れた」 無言で寄ってくる。足許にしゃがみ込まれた。 「……あーこりゃ駄目だな。鼻緒完全に切れてる」 「…あ、あんまり見ないで……」 「……な、何だよ俺変な事言ったか?!」 ぎょっとした顔で見上げられた。 「……だってこれ履き古してて恥ずかしい」 「……そりゃ単にお前がそんだけ気に入ってたって事だろ」 何でもない様にそう言ってすっくと立ち上がる。 「ちょっとここに居な」 「え、何」 「履けるもん探してくる」 「ちょ、ちょっと待ってよ」 さっさと遠ざかっていく背を見て口を噤む。置いていかないでなんて言うのは格好悪い。でもちょっと見捨てられた気分で橋の欄干に腰を掛ける。 さっき一体何を覗き込んでいたのか気になって見下ろすと、意外にも川の流れは澄んでいて小さな魚が泳いでいた。足を川側に降ろし、ぶらぶらさせながら天を見ると既に正午もかなり過ぎている。 太陽はもう、落ちていくだけだ。 永く永く続く日々の中、それでも一日が酷く早く感じる時がある。 「あーあ」 こういう時、独り残されるのは淋しい。過ぎ去ってしまった時間に気付いてしまう。 「………何やってんだお前」 「あ、え、もう帰ってきた」 「履物店が近くにあんだよ。ったく危なげな格好しやがって」 「そう?」 「俺達はそう思わなくてもな、町娘が橋に草履置いて、欄干に腰掛けて足投げだしながら川覗き込んでたら入水でもする気かと思うぜ」 「……あ、そうか。そうよね」 「良かったな誰にも見咎められなくて」 「………」 正直そんな行儀の悪いところを見られたのは普通に恥ずかしかったのだけど。 欄干に草履を置かれる。藁草履だ。 「下に置いてくれる方が」 「俺の前で欄干を跨ぐ気か雛森」 「………」 仕方なし欄干に立ち上がり突っかける。跨ぐよりはましかもしれないけど。 全く本当に、こんな事町娘はしやしない。 軽やかに飛び降りると、既に鼻緒の切れた草履は日番谷くんに拾い上げられていた。
わら草履は思ったより足に馴染んだ。見た目は最悪だけど。 「連れてきたぞ」 「……お邪魔します…」 何かの商店らしき店構えはしていたが、履物はどこにも見えず中は薄暗い。すぐに店主らしき老人が現れた。 「随分とめんこい子だねぇ」 「いいからさっさと草履を出せ」 「全くせっかちな客だよ。お嬢さん、ちょいとそこにお座り。今台を出すから」 「は、はい」 「これが切れた方」 「大事に履いてたんだね。随分と長持ちしたようだ」 顔が赤くなる。 「あのう」 「ん?」 日番谷くんは後ろの方で木椅子に腰掛けた。 「履物を外に置いておかないんですか」 「それをやると傷むからねぇ」 「………そうですか」 店内にずらりと履物を置いているのが履物店だと思っていた。大事そうに箱を取り出すその手つきを見て少し自分が恥ずかしくなる。 決して安物買いのつもりは無いけれど、街の流行を追っている時もある。 「女物は少なくて申し訳ないけれど。これなんてどうだい。少し古いから安くしておくよ」 出されたものは、上等な本皮に型押で美しい大輪の椿が描かれていた。古いなんて全然判らない。大事に仕舞われていたそれは、とても鮮やかな色で咲いていた。花びらが幾枚か更に描かれている。散り椿らしい。特殊な染めなのか、独特の風合いだ。初めて見た。 「おい雛森、黙ってないで」 「え、あ……うん、これすごい綺麗…」 「じゃ鼻緒選べよ、さっさと」 「ちょっとどうしてそうせっかちなの」 「まだ色々見たいんじゃねーのお前。今日が終わっちまうぜ?」 「………」 「おいじじい、柔らかくすげてやってくれよ、まだ結構歩きそうだから」 「あいよ」 迷う楽しみも与えず急かされる。それでも店主が出してくる物はどれも的確で悩む。 「どれにしよう」 「ちりめんも可愛いよ。いつも愛用してもらってるこのちっこい旦那もねぇ、今回はちりめんで」 「おい余計な事言うな!」 「ああそうそう、蟹模様の鼻緒の奴出来てるよ」 「かに?」 「いいんだよ小さい柄だから誰も気付かねぇ!言うなよじじい!!」 「ちょっと見せて!あたしそれ見たい!!」 「いいから早く鼻緒決めろよ!」 さっさと決めないと店を出ていきそうな勢いの日番谷くんに、慌てて鼻緒に目を戻した。質素だけれども質感が一番近かった鼻緒を指さす。 「あの、これでお願いします」
「……おい雛森。ぼーとしてんぞ」 「え、」 草履の出来上がりを想像しているうちに、目の前に餡蜜が現れていた。日番谷くんも今度は付き合ってくれるらしい。羊羹の皿が置かれている。 「ご、ごめん。さっきの草履が気になって」 もぞもぞと卓の下でつま先を合わせると、藁の柔らかな感触が足袋越しに伝わってくる。秋桜が甘く一面を埋める着物には地味過ぎて合わないけれど、履き心地はとても良かった。何となく日番谷くんが愛用しているっていうのも頷ける。藁草履も採寸からなら、彼の足の大きさに合わせられるし。 それにこれ、絶対走りやすい。 「ねぇちりめんの」 「見せねーぞ」 そもそも店に置いてきているから見られない。 「かにさん仕事に履いてくの?」 「履かねーよ!突っかけ用!」 「なぁんだ」 「あんのじじい余計な事言いやがって。だから連れていきたくなかったんだよくっそ」 「良く知ってたね、あのお店。外からじゃ履物屋って気付かないよ」 「……店っつうか問屋みてーなとこなんだけどな」 あっちの地区は下請けが多いんだ。そう言って熱いお茶を啜る。 「注文生産だから、在庫もそう多くねぇし」 「でも鼻緒も色々見せてもらって……ねぇ、」 「何だよ」 「鼻緒だけ替えてもらえば良かったんじゃないのかな」 「…………お前気付くのが遅ぇよ」 「う、」 「………今日はさっきの履いて帰れば。傷みが気になるならじじいに見て貰えばいいし」 「……そ、そう?」 「今度受け取りに行くときについでに持って帰ってやるよ、それでいいだろ」 「え、いいよ。自分で行くよ」 「独りで行くな」 「え」 「あっち下請けって言ったろ。あんま死神に対しての感情が良くねぇんだ、住民の」 「………」 「こっちはさ、死神相手の客商売が多いからそうでもねぇけど」 「………そうなの?」 「そう」 簡潔に言って、日番谷くんは匙をくわえた。 「変なのに絡まれると面倒だからな」 「絡まれた事あるの?」 「縛道でちょいとかわしといた」 「…………」 知らないって怖ろしい。 隊長相手に絡んだなんて、多分その人は知らないんだろうけど。 茶店を出て橋を再び渡り、店に戻る。眼鏡を掛けた店主が物陰から現れ、奥に招き入れられた。 「出来てるよ」 そっと完成した草履が床に置かれ、座るように促された。おずおずと足を入れる。 椿が、足の下に消えた。 「ふき取りの工程を何度もしているから大丈夫だと思うけれど、最初のうちはあまり濡らさないようにね。足袋に色が付いたら申し訳ない」 「……何だか踏んじゃうのが勿体ないです」 「そうかい?…散り椿はね、花びらが1枚づつ散る姿が潔いから、武士椿とも言われるけれど」 命の終着を司る、死神の娘の足許に散るなんて、ぴったりじゃないかね。 そう言われ思わず動きを止めた。 「散り際の紅い花びらの絨毯を見た事があるかい?とても美しいよ」 「…………あの…判るんですか?あたしが…」 「町娘だったらこの旦那が一緒に歩いてる訳ないだろうよ」 「……おいこらどういう意味だ」 自分の草履の入った袋を受け取りながら日番谷くんが鼻を鳴らした。 「まぁそれもあるけどね、儂は履物屋だからやっぱり履物で見る」 節くれだった指が鼻緒の間を調整していく。 「履物って言っても別に変わったものは」 「これでも客に死神さんが多くてね。……まず、死神ってのは走れる履物しか履かない」 「………」 「旦那、下駄を持ってるかい?うちで買った事はないけれども」 「履かねぇな。下駄は地面の感覚が遠い」 「うちで買う草履は、いつも紐が通せる様頼むね」 「踵が離れるのは嫌なんだ。滑る。特に仕事ん時はまずい」 「別嬪さん、下駄は持っているかい?ぽっくりは?」 「………持ってないです」 「何故?」 「…………可愛いけれど……」 歩きにくいからだ。 確かに。 借りた藁草履を履いて、最初に思ったのは。
「……どうだい」 立ち上がる。 「……良いです。歩きやすい」 「仕事は遅いけど腕だけは確かだからな」 「遅いのは年寄りだからね、仕方ない。死神さんには贔屓にしてもらってますよ。旦那は最初来たの何席の時だったかな、今じゃ隊長って言うから驚きだよ」 「天才児らしいんでな」 「履きつぶした草履の数は普通だったよ」 「…………消耗品だろ、基本的に」 ちょっとふてくされた様な顔をする。照れてるのかもしれない。 「あの頃は随分とんがっててねぇ…」 「おいおい思い出話かよ。勘弁してくれ」 「気を張っていたのかね。子供らしくない子供で」 「…俺達の外見は当てにならねぇよ」 「そうだね。子供らしさを旦那に求めるのは酷ってもんだな…」 鼻緒の切れた草履が床に置かれる。 「これ、暫く預かっていていいなら汚れを取ってみるよ。気に入ってたんだろう?」 日番谷くんの気配が背後から消える。振り返ると店の入り口に背が見えた。子供達の笑う声が聞こえる。路地で遊んでいるんだろう。 日番谷くんは、年近い子供達の方に目をやろうとはせず、柱に寄りかかってじっと表を見ていた。 「鼻緒も似たものを探しておくから」 「……あ、すみません、お願いします」 「毎度あり」 「修繕のお金も今払えますか」 「旦那のつけにしとくよ」 「え?」 「ほらもう行きなよ。めかしこんでこんなしけた場所に居るのは勿体ないよ」 「………ちょ、ちょっと待ってください、困ります!日番谷く…」 振り返る様子も無い。慌てて財布を取り出す。 「あたしが払います」 「値段は言わないよ。ほらもう行った行った。旦那が待ってるじゃないか」 「だって」 「野暮な事言いなさんな、お嬢さん」 皺の深い顔が笑った。 「奢らせておきなさい」 「遅ぇよ。どうしてそういつももたもたしてんだ」 「………ねぇ、日番谷くん」 「何だよ」 「あたしって野暮?」 「は?」 日番谷くんは上から下まで一通り見て、別におかしかねぇぞと言った。 「じじいが言ったのかそんな事」 「そういう意味じゃなくて………乱菊さんにも言われた事あったなぁ」 「鈍いって意味か?」 「え、あたしって鈍いの?!」 「………………俺が聡いって事にしておいてもいいけど」 「…………」 「早く行こうぜ」 欄干をぺしりと叩いて日番谷くんが歩き出す。後を追いながら振り返ると、店主が軒先に立って深くお辞儀をしたのが見えた。 「どうしようかしらこれ、勤務中に居眠りしてるのなんて初めて見たわ」 「……来ちゃ駄目だったかな……何だか疲れてるみたいだし」 「そうそうないわよ、こうやって寝顔晒すなんて。ほっぺ触ったら起きちゃうかしら」 「お茶飲み終わったら起こせって言ってたから、もう起こしてあげた方がいいのかも」 「いいわよもう一杯飲んじゃいなさいよ」 「でも随分前から葉っぱ替えてないみたいだし……乱菊さん飲みます?それなら新しい茶葉入れますけど」 「いいわねぇ。葉っぱ一番いいやつ入れちゃおう」 「起きたら怒るかなぁ」 「寝てる隊長が悪」 がばっと俯していた顔が上がったので、乱菊さんの言葉が止まった。隊長という単語に反応したらしい。 「……何してんだ乱菊」 「何って書類を渡しに来たんですけど」 「日番谷くんお茶新しく入れなおしたけど飲む?目が覚めるよ」 「…飲む」 「顔に袖の跡ついてるわよ」 ご苦労もう帰れと、こしこし頬を擦りながら言っても迫力が無い。 「あれ、何処行くの」 「ちっと顔洗ってくる…」 障子が音を立てて閉まった。 「本当に珍しいわね、ああいうの」 「そうですか?時々居眠りしてるの目撃するんですけど」 「じゃあたしの前だからかしら、気張ってるの。部下に隙を見せるのが大嫌いなのよね隊長」 「あたしなんか色々な人に助けてもらってばっかりですよ」 「みんなの前では格好つけときたいのよ。頼られたいの。見た目ああでもね、隊長って中身しっかり男の子だから」 「そうですか?子供っぽくは無いと思うけど…あたしは特にそう感じた事はないなぁ」 「隊長が気を許してるから割合と自然体なのよ。あたしと居る時はもっとぴりぴりしてるわ」 「…そうなのかな」 なら、ちょっと嬉しい気もする。 お茶をつぎ終わり、湯飲みを差し出す。 「それで、どんな風に男の子なんですか?」 「あのねぇ、そういう野暮な事は聞かないの」 きっとそのうち判るようになるわよ。 うふふと艶やかに笑った肉厚な唇が、そっと湯気を吹いた。 「おい雛森、俺の顔じゃなくて帯見ろよ」 「………何となく判ったような、判らないような」 「何がだよ」 「うーん」 「買ったさっきの反物に合わせてみればいいんじゃねーの。俺に聞くなよもう」 「うーん」 「全く全身一式買うとは思ってなかったぜ。女の購買欲はすげぇな」 「一式って言ってもこれから縫わなきゃ」 店主に断り紙袋から反物を出す。候補を決める。 日差しは低く長く差し込んでいる。もうあまり時間が無い。 「既製品じゃ嫌なのかよ」 「昔、お針子になろうと思ってたの」 「…………」 「ね、浴衣作ってあげようか?」 「……に言ってんだ、別にいらねぇ」 「お礼何も出来ないし」 「………気にすんな。別に……」 口ごもった声を背に聞きながら、反物を出して貰う。きっと今振り返ったらそっぽを向いているんだろう。 「これなんかどう?」 「…蟹柄かよ!絶対着ねぇからな!」 「折角見つけたのに」 ここはさっきの所よりもあたし好みの反物は少ない。ただ、男物の柄は結構ある。もう一つ指さし見せて貰う。 「これとか」
日番谷くんになら、きっと蒼が似合うだろう。 「俺柄物あんまり着ねぇんだよ」 「知ってる。でもこれね、きっと似合うよ」 「………」 困った様な顔をした隙を逃さず、さっさと店主に裁断させた。 「…日が落ちるね」 「帰るか」 「………うん」 大橋に向かう道は既に紅く、日番谷くんの足許から伸びる影は長い。 紙袋を抱えながら歩く。すれ違う人の数も減り、まばらだ。 「あーあ、明日からまた忙しいなぁ」 「俺は遅番だからゆっくり寝させてもらうぜ」 「ずるーい。あたしは朝一からだよ」 「ずるいって言われても困る」 「溜まってる書類は」 「乱菊みたいな事言うなよ」 日番谷くんの影が長く伸びて大橋を横切る。川の流れを覗き込むと、赤に反射してよく見えない。
前を向くと、藁草履が音もなく橋を渡りきるのが見えた。 紅く染まった身体が振り返る。 「……雛森、何してんだ」
「………」 「おい、」 「……夕日」 「あ?」 「夕日、大きいね」 「ああ」 「…………綺麗」 「雛森?」 「…………」 小さな溜息が聞こえ、どうしていいのか判らず俯いた。 真横から差し込んでくる赤が目に痛い。
あたしは橋の真ん中で、立ちつくしたままだ。
足が、動かない。
「……判ったぞ」 目を上げると、正面からゆっくりとこちらに歩いてくる姿。 「どうして一人で出かけるのを嫌がったか」 紅い陽光を浴びた世界を切り抜いて近付く黒い影。 それを踏む足は紅く染め上げられた布へ続き、細い首へ一直線に伸びる。 幼い造りの顔に浮かぶ表情は、押さえられている事が多くて。 そんな時あたしは、彼が何を思っているのか判らない。 「………一人で来ると」 ただその瞳だけは、強い光をいつも宿していて、変わることは無い。 「お前、帰れなくなるんだな」 紅を浴びて彼の虹彩は濃く深く見えた。 時折その眼差しに目を奪われる。日番谷くんの目は、そういう磁力を持っている。 視線を離せなくなる、目だ。 「……帰るぞ、雛森」
手首を掴まれた。 根を張ってしまったみたいに動かなかった足が、縺れるように一歩を踏み出す。 手首から滑った手が、あたしの手のひらを掴む。 温かい手があたしを引く。 「……どうして、」 夕日が浸透した世界で、影が繋がって。 「………何で判っちゃうの……」 あたしの声は泣きそうだ。 「…知らねぇよ」 皆と一緒に渡るなら、笑って家路に着けるのに。 「何となく、判っちまったんだ」 夕日は、楽しかった時の終焉を告げる。 帰りたくない戻りたくない今のまま、このままで。 殺伐とした日常に戻る境目のこの橋は、いつだって足の自由を奪おうとする。 引く手は強くもなく弱くもなく、だけど足を止める事を許さない。 だから一歩一歩夕日を横切っていく足が、俯いた目の中に映った。 日番谷くんはそれ以上何も言わず、橋を渡りきるまで手を繋いでいてくれた。 「……日番谷くんて、手おっきい方?」 「……別に。お前と大して変わらねぇよ」 「そうかな」 「何で」 離されてしまった手が少し惜しい。 温かい手だった。 「あたしと感触が違う気がする。ちょっと固くて平べったい」 「………お前の手は大福みたいだ」 俯いてそう言った背は随分と近くなっている。 「大福って………失礼しちゃうわね」 もう足はきちんと動く。感覚が戻ってきている。 藁草履の時ほどではないけれど、地面は土の感触を伝えていた。 「あ、今日大福食べ損ねた!」 「………一体一日何件甘味処へ行く気だ」 「今度行こ、美味しい所があるの」 「………別にいいけどよ。お前本当に花より団子だな…」 「その後、天気良かったら河原の方行こうよ。お散歩」 「………」 「今日は連れ回しちゃってごめんね。でも楽しかった」 「………そりゃぁ、良かったな」 日番谷くんの台詞はいつもそっけない。 それでも態度を見ていれば、存外に甘く優しい事は、既に識っている。 今なら乱菊さんの言うことも判る気がする。 だってあの時あたしを引いた手は、力強かった。 やっぱりあたしも、彼の外見に囚われていた部分があったんだろうか。 乱菊さんはきっと、日番谷くんの本質に気付いていたんだ。 日番谷くんがもう少し年を取っていて。 もう少し背が高い、丁度あたしと同じ年頃の少年だったら。 あたしも乱菊さんみたいに思ったんだろうか。 「…雛森行きすぎ」 「へ?」 「直進しても帰れないぞ。どこ行くんだお前」 「あ、うん」 「……どうした、顔が赤い」 覗き込んでくる表情を見ていられず、思わず目を地面に落とす。 「………な、何でもない…」 ………どうしよう。
今あたし、多分真っ赤だ。 だって想像の中の日番谷くんは。 大人びた顔をして、あの印象的な瞳でやっぱりあたしを見抜いて。 それなのに、いつもの日番谷くんの言葉で、態度で。 そっけない台詞と、温かい手のままに。 そんな日番谷くんだったら。 あたしは恥ずかしくて、今日ずっと顔を上げられなかったに違いない。 「…なぁ」 声が聞こえ慌てて顔を上げる。あたしより小さい背を見て、無性にほっとした。何て心臓に悪い想像をしてしまったんだろう。 「な、何?」 「お前はさ、………街で暮らしたかったのか?あの橋の向こうに居た子達みたいに」 子供達の笑い声と、それを見ようとしない日番谷くんの背中を、あたしは何故か思い出した。 明るい日差しの下笑いながら歩いていく少女達。 「………ううん」 そういう世界を、羨む事はあるけれど。 「……死神になったのを後悔した事はないよ」 「…そっか」 「うん」 針を握る筈だった手には、血に染まる刀。 縫い合わせる為のそれが、切り裂くものに変わっても。 それは、あたしが選んだ道だ。 振り向いて自分の影を見下ろす。角を曲がったせいで、日の差す方向は正面になっている。 眩しい。 でも、もう少しでそれは消え、闇が落ちる。 既に足許は土から砂利にかわり、隊舎はもうすぐだ。 足の裏から散っていく椿の花びらを想像して、あたしはゆっくりと砂利を踏みしめた。 「雛森、遅ぇよ」 振り返った横顔が急かす。 そう言いながらも、いつも彼は最終的に立ち止まる。 「あ、ごめん」 「まだ必要なのか、手」 その言葉に、また頬が熱くなりそうになった。 「………ううん、」 それでも夕日の中の彼を、今度はきちんと見つめる。 朱色を浴びて、ひどく眩しく感じたけれど。 「もう大丈夫。……心配させて、ごめんね」 「……気にすんな」 また背を向け彼は歩き始める。ゆっくりとその後をついていく。 急かす癖にその足並みはとても緩やかだ。 「ねぇ、大福好きなの?」 「…………さっき食べに行く約束したのに、嫌いな訳ねぇだろ」 「そう」 「そうだよ」 「粒あんも?」 「げ」 小さな背から伸びる影は、低い夕日を浴び長く伸び、真新しい草履を越えあたしの影と繋がっていく。 紅い花が散っていくその道筋の先には、必ずあたしが居るんだろう。 「粒あん嫌いって言ってなかった日番谷くん」 「……………大福は別なんだよ、ほっとけ」 足許に散りばめられる見えない紅は、朱に溶け、夕闇に溶け、
そうして、闇の中に消えた。
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