鈍色の詩





 自身の頬に伝う飛沫が、垂れ下がる過程が生々しく伝わってくる。生温かく、自分のものかそれとも違うのか混同してしまいそうだ、とも思った。
 虚が群れをなして、己に近付いてくる。咄嗟に身構え斬り付けたのが遅かったのか腕に、にぶく鉛のような重みを伴って斬魄刀が哀しげに鳴り音を奏でる。

 「まだ、やんのか」

 勝算は明らかで、その差は必然的に分かる程、出ていた。
 最近はこんな雑魚の相手や、適度な見回り役と称した指令しか下りてこない。現世界域へ足を運ぶことも多々あったが、そう言った類の者は殆どの重要な件でなければ、自分には回ってこなかった。雑務と、度重なる小さな指令が膨大になりそれに振り回されているといった方が正しい。
 
 目の前にいる虚は、尸魂界のこの自分が任務についている帯域に姿を現した時点で、終わっている――

 「んだよ、それ」

 今、自分の脳裏を掠めたことに吐き気を覚えた。己の奥底から這い出るようにして、突き進まんばかりに溢れかえり、霊圧を抑えるのに必死になる。
 この虚どころではない、と思っていたら勝手に霊圧に飲み込まれ昇華していった。真ん前で、消え去るように。
 どこかむなしく心が軽くなった。
 それは、自身の霊圧とは裏腹に身軽になっていっている。自分の中にあるものが全て陳腐に思え、鬱陶しい。何が、引っかかってるというのだろう。
 集中し霊圧の調整をはかった。斬魄刀にこびり付いた血痕を懐から、紙を取り出し拭い去る。
 真っ直ぐに天に斬魄刀を翳す。刃に光が反射して、まっさらで触れたことのないような輝きを取り戻していく。何度もこの過程をこなしていく内に、日番谷は混同した。
 己の信念を忘れた訳ではない。死神でいうところの、一部隊の隊長を一任されるようになってからというもの以前から増して日に日に心底に巣喰うように汚染されていっている。自分の力量を貪欲に求め、傲岸になって、微々たる恐れに気付かぬようなふりをし、過信すぎるくらいに自惚れていた。
 我を忘れ、突進してくる虚にそれを気付かされるなんてどうかしているのか、頭を振った。
 悪辣を隠さぬ、丸裸になって追突してくるあれ達に牙を向けられ怯えを覚えたというのか、この俺自身が。
 死線というものを何度もかいくぐって通り抜けてきた。その度に着実に付いていっている力量すらはかり得ることさえも分からないくらい駆け抜けてきたのだ。
 
 「……くそッ」

 背の鞘に一度は収めた斬魄刀を、一降りし解放してやる。己に秘めたる霊圧というものを。

 「出てきやがれ」

 飲み込まれて朽ちてくのは、どちらが早いだろう。この尸魂界の一介に過ぎない大地か、自分自身か。覇気を込め、手に握り込めた力が震えて体に伝わってくる。砂が空へと、立ち込めようとしていた。
 
 ――何してるの!!
 
 空耳まで聞こえてきて、頭まで遂にいかれててしまったのかと思った。

 「……日番谷くんっ」

 日番谷の圧倒的な霊圧の前に砕け落ちそうになるのを必死に抑え、雛森が斬魄刀を構え現れた。いきり立ち浸透して、雛森の斬魄刀が日番谷の解放を始めた斬魄刀に斬りつけるように、悟りを見出すかのように語りかける。無言の、雛森の叫びが日番谷には遠く、遠く、から鳴る。
 雛森のしなやかな両手に掲げられた飛梅が日番谷の斬魄刀と重なり合い辛うじて、飛梅が弾け飛ぶ動向を抑えていた。雛森の瞳が見開かれ、曇り一点のない輝きで日番谷を包み込んでいく。沈むように絡み合うお互いの霊圧に、浄化して日番谷は中和されてくる。

 「止めろ!」

 持てあました重圧が体中に押し込まれていった。抑えきれない。これに自分が耐えるのさえ苦しいというのに、未だ雛森は必死に肉体を抱き留め、濁流の渦に飲み込まれていきそうだった日番谷に手を差し伸べる。届かない、裂いて消えてしまいのを恐れずに一緒に墜ちていく術を選んだ。足を踏み止めることさえ、躊躇せずに。雛森の握りしめた剣が、日番谷に突き立てられ刃となってその身を切り裂く。
 空が闇を追い払ったように雲が引き、日差しを運んでくる。雲から木漏れ落ちた照りたちが、閃光のように見えた。

 「何でこんなとこにいるんだ……、よ」

 消える程に小さくなった日番谷の霊圧が、落ち着きを取り戻してきた。肩で息を吐き、額から垂れ落ちた冷や汗が雛森を伝い流れてくる。瞼を開くのもやっとなのに、何で自分なんかを見つめるのか、見据えるのか、雛森が足を一歩差し出した。ふらつく体を必死に奮い立たして、こちらへと向かってくる。
 前に立って、上から覆うように雛森は日番谷の体を包み抱き込んだ。両手が、たおやかに回され柔らかな肌が温もりを持って、教えてくれる。自身の、存在を。
 込み上げてくるこの感情は何だろう。強に溺れて空っぽだった自分のなかを埋めていくものたち。ほどよい程に、焦がれるように求めてやまない感情を呼び起こされる。

 「雛森……」
 「うん」

 言葉など有無を言わんばまりに待とうとしなくて、お互いの力が微々たるくらいの欠片たちが重なり合い、繋りを求め堅く結ばれていく。
 この自分を覆い隠すように身を立て、囲うようにして雛森は問いかけた。自分の存在の意味と、焦りに狂うように欠け始めた歯車を戻すように、ゆっくりと語らいを自らの体でもって日番谷と向き合った。

 「……なんて無茶するの?」
 「莫迦げてる……な」
 「ホントよっ、もう」

 優しく解けてしまう、ぽっかりと空いた空洞は満たされるのを待っていたかのように、違った解放を放ち自分を鎮めていった。

 「……ねえ、聞こえる」
 「何だ」

 ここ、と言いながら雛森は日番谷と抱き合っていた身体を離して向き合い、日番谷の心臓を指さした。

 「聞こえるんだよ。日番谷くんがいるって、ここにいるって。必死に教えてくれてる。あたし、聞こえるもん」

 甘く囁きかける吐息が、丁度耳をくすぐって行き交う。何度も。日番谷の胸に、耳を寄せ言葉を紡いでいく。

 『やっと捕まえた』

 つかまえた。
 強調して、口をパクつかして雛森は照れくさく笑う。胸に当てられ雛森が触れた部分が、熱を持って熱くなる。鼓動が早まるのを抑えきれなくなっている。丸ごと全部雛森には、その状態が手にとって分かるのだ。心拍数の異様さまで。

 「フフ、ドキドキする……。何も悪いことなんかしていないのに、おかしいね」
 「オイ、いい加減もう離せ。……俺から離れろよ」

 日番谷は、静かに息を吐き荒げる神経を抑えた。瞼を閉じ、脳裏に現実の手に届く温もりを焼き付けて閉じこめた。
 雛森には、そうとでも言ってまで突き放さないと、気付かれてしまう。残酷な自分の愚弄さと惨めな虚言、そして内に秘めた感情。そっと静かに愛でるべきである存在が壊れてしまうような気がして怖かった。

 「嫌っ。絶対イヤ。あたし、絶対離れない。離れないんだから……! もう日番谷くんを一人なんかにさせない」
 
 首を横に大きく振って否定する。腕にしがみついて離れようとしないで、雛森に触れていた手が宙を仰ぎ、行く手を阻もうとする。

 「頼む」

 ――お願いだから、

 「お前は、そのままでいいんだよ。俺に構うな。……これ以上側に来ては駄目だ」

 遠くから、お前の存在だけを見守っていることができればいい。自分の在り方を差し伸べし、兆しを見出してくれた存在を護ることができたら、それで良い。
 これ以上望めば、留まることはもう出来ないかもしれないだろう。覚えを知ってしまった感情は、歯止めが効かない。自分が、一番良く分かっている。

 「イヤよ、これは……」

 言葉を選んで、必死に問いかけようと雛森はしていた。日番谷は、雛森に突きつけられた感情という刃が、じりじりと今更に負荷となり沈殿してくる。

 「あたしの勝手だもの。自分のしたいようにする。日番谷くんも、日番谷くんがしたいようにすればいいから、お願いよ」

 凛とした面構えで、堂々と日番谷と雛森は向き合おうとした。永遠など、信じているわけではない。でも、焦がれるようにこの時ほど雛森との奇蹟を信じずにはいられなかった。錆び付くようにこそげ墜ちていった掴めそうで掴めなかったものが、やっと見えたような気がした。雛森にひかれあう希望に似た、淡く望んだ運命に翻弄されても良いと思った。この手が、この剣−斬魄刀−が教えてくれたんだ。

 「あっ」

 雛森の手を引き、今度は自分の胸に抱きしめ閉じこめた。死神である誇りを忘れはしない。この剣で恐怖すら打ち砕き、我が道を迷い無く歩いていこうと誓いを立てた。
 
 「……俺は、こうしたいんだ。いいのか?」
 
 間が置かれ、沈黙が有するのは繋ぎ止められた雛森の答えだった。小さくいいよ、と雛森は呟いてその身を日番谷に預け導いた。









コメント 日番谷が過信し、葛藤して奥底に隠れた己の一面を、牙として見出してしまう。
それを乗り越え、現実と向き合うことで自分の今、の在り方を問う姿を日番谷
の”牙”として、捉えたつもりなのですが…。少しでも何か感じて頂けることが
あれば嬉しいです。
written:たまい
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